≪星の国から風だより≫  第三回 2008年12月27日

 

アメリカに端を発した世界金融危機の波はここシンガポールにも押し寄せ、バブル景気に沸いていた市場は一気に冷えこみ始めました。年々上がる一方だった住宅価格も下がり始め、好景気を見込んで高級コンドミニアムを購入した人々は多額の負債を抱え込んだようです。
昨年この国がバブルに浮かれているとき、私は一人の女性に出会い、改めて人生の価値は財産ではないことに気づかされました。今回はその女性についてお話します。

 

私がTさんに出会ったのは、子どもの幼稚園でバス委員をしていたときです。
娘と同じクラスに一人の男の子が入園しました。登園バスも同じだったその子は少し恥ずかしがりやだけど笑顔のかわいい年少さんです。彼のお母さんは台湾系アメリカ人。日本人ビジネスマンと結婚して日本に住んでいましたが、夫の転勤でシンガポールに来たばかりでした。電話の会話では早口で英語を話す快活な人、という印象でしたが、実際に会ったとき、はっとしました。かぶっていた野球帽の下に頭髪が見られなかったのです。もしかして?と思いましたが、後で本人から乳がんの治療中であることを告げられました。

 

自分と同じ歳の子どもを育てる母親が乳がん、しかも進行乳がんにかかって治療中、という事実に私はショックを受けました。万一のことがあればその男の子と姉(小5)が後に遺されることを想像したからです。そのとき彼女はすでに患った片方の乳房を切除し、術後の化学療法を受けていました。海外で幼稚園児を育てることだけでもストレスはありますが、それに加えてがん治療に伴う精神的、肉体的負担は相当なものであることは容易に想像できました。また、夫が日本への出張が多く、ほとんど家にいないことも彼女にとっては痛手だったに違いありません。

 

そんな中で、日本人のお母さんたちを驚かせたのは彼女の明るさと前向きな態度でした。
クラスの懇親会ではがんを患っていることを包み隠さず、むしろ積極的に語り、乳房検診の大切さを訴えました。自分が体験した苦しみを他の人に味わって欲しくないから、という理由からでした。私はTさんの体験をもっと多くの人に知ってもらいたいと思い、日本人会のグループで勉強会を開催しました。

 

参加者は医療や福祉関係の資格を持っている女性たちで、中にはがん病棟や外来で勤務して直接がん患者と接触した経験のある看護師もいました。そんな彼女たちもTさんの話を聞いて、がん患者がどのような気持ちで告知を受け入れ、辛い治療と向き合っていたのかということに改めて気づきました。また、私は心理職として、大病を患うことによる喪失感、不安、怒り、焦りなどの感情とTさんがどのように向き合ったのか、また夫や子どもたちの気持ちをどのように受け止めたのかということに関心を持ちました。

 

「闘病を通して、私も家族も強くなった」 とTさんは言います。がんが進行していたために迷っている時間がなかったこと、また、家族のために「なにがなんでも生き延びる」という決意をしたことで、人生の優先順位が明確になりました。自分にとって最優先の事柄だけにエネルギーを注ぎ、それ以外のことは潔くあきらめました。現実としっかり向き合うために、二人の子どもには病気のことを隠さず話し、夫とは万一の場合の子どもの処遇についても話し合いました。自分が選んだ米国の専門病院で手術をした後は、シンガポールで化学療法を継続し、現在は全ての治療を終えて経過観察中です。再発の可能性を理解しつつも、「もう自分は完治したんだ」と信じることでひたすら前を見つめているTさん。辛かった治療を通して学んだことは、「期限付きでも人生は価値がある」ということと、「自己実現に待ったなし」ということでした。「人生は意外と短いかもしれない、だからやりたいことは今やらなくちゃダメ。」 というTさんの言葉を聞いて、なんでも先延ばしにする癖のある自分を反省しました。また、「誕生日は自分の命に感謝する日。無事迎えられたことを家族で祝いたい。」という言葉に、近年は誕生日がくると「あー、また年取ったー。」と不満げに思っていた自分を恥ずかしく思いました。がんとの闘病はTさんにとって多くの喪失体験を伴いましたが、同時にそこから人生の価値や家族の絆を再認識する機会ともなり、喪失から学ぶ、というのはこういうことなのかなあ、と感じました。

 

来る1月29日、Tさんの体験談を聞く講演会を日本人会で開催することになりました。今度は一般会員を対象に30名程度を募集する企画です。私は通訳を兼ねて、心理職の立場から病気にともなう喪失について少し話をする予定です。日々様々なストレスにさらされる海外生活ですが、参加した人がTさんの話を聞いて日常にあるささやかな幸せに気づくきっかけになればよいかなと思います。この講演会については後日その経過をご報告します。

 

では皆さん、よい新年をお迎えください。ひきつづき来年もよろしくお願いいたします。

 

3.闘病からの気づき関連ページ

星の国から風だより
シンガポールという国、皆さんはどのくらいご存知でしょうか。
2.出稼ぎ労働とメンタルヘルス
シンガポールには出稼ぎ労働者が多く住んでいます。人口459万人のうち約100万人が海外から働きに来ている外国人ですが(かくいう私の夫もその一人)、今回はある外国人労働者に起こった悲劇についてお話します。
4.暑いお正月に感謝
日本では寒い毎日のようですが、当地シンガポールは朝晩「涼しいなー」という感じの冬です。日中は30度近くありますが、プールに入ると水は冷たく、子どもたちは震えながらスイミングをしています。日の出と日の入りは年中7時ごろですが、冬は日の出も多少遅くなるようで、子どもがスクールバスに乗る朝7時でもまだ暗く、月が出ています。
5.ママ友の闘病体験
乳がんを患った友人Tさんの講演会についてご報告します。
6.ホストマザーに学んだ人生
今回は3月に訪れたアメリカで感じたことをご報告します。
7.マイケル・ジャクソンを悼む
マイケル・ジャクソンの訃報が世界を駆け巡りました。史上最も成功したエンターテイナーとしてギネスブックに認定されたほどの功績を残したマイケルですが、その私生活は訴訟、ゴシップ、離婚、処方薬依存と波瀾に富んでいました。
8.グリーフワーク講座
シンガポール日本人会厚生部主催でグリーフワークの講座をおこないました。
9.私流アンチエイジング
エイジング(加齢)について真面目に考え始めました。きっかけは先般のグリーフ講座で資料として使った竹内まりやさんの「人生の扉」という歌です。
10.「小さな家」から学んだ大きな幸福
昨年から私の心を捉えているある子ども文学についてお話します。